京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1

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京都には、天智天皇陵と、桓武天皇以降の諸天皇(第五十一代平城天皇、第七十五代崇徳天皇、第八十一代安徳天皇、第九十六代後醍醐天皇、第九十七代後村上天皇、第百二十三代大正天皇、第百二十四代昭和天皇の七陵を除く)の御陵があり、その皇后皇妃、皇子皇女の陵墓も数多くあります。

戦前は歴代天皇陵に参詣するのがブームだったこともありますが、現在では、熱心な天皇陵ファンや研究者は別として、京都を訪れる一般観光客にとって、ごく一部の有名な天皇陵(例えば、桓武、明治等)以外は、ほとんど興味の対象にはなっていないようです。有名な神社仏閣が多い京都では、どうしても観光対象としての皇室史跡の扱いは小さくなるでしょう。


しかし、有名な観光寺社が少ない京都市西京区(京都府向日市も)では、皇室史跡(考古学的に古墳としての興味もありますが)が、地域を代表する史跡として採り上げられる事が多いです。
向日市では、淳和天皇火葬塚や、ブログパート2に掲載している桓武天皇皇后の藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)の高畠陵。
京都市西京区では、桓武天皇の母高野新笠(たかののにいがさ)の大枝陵や、桓武天皇夫人の藤原旅子(ふじわらのたびこ)の宇波多(うわた)陵。それに、現在は皇室史跡という扱いでは無いですが、以前にブログに少し掲載した天皇の杜古墳(古くは文徳天皇陵や、桓武天皇夫人藤原吉子の大岡墓に比定されていました)も西京区では有名な史跡です。




さて、長くなりましたが、今回は、京都市西京区大枝中山町にある藤原旅子(ふじわらのたびこ)の宇波多(うわた)陵に隣接する三ノ宮(三宮)神社を採り上げました。次回に掲載する宇波多陵のプロローグのようなものになります。

宇波多陵は、京都の皇后皇妃の陵墓の中では(大体、ほとんどの陵墓は画一的で没個性ですが)、細く長く続く参道が印象的で、若くして亡くなった薄幸の女性(旅子は生前は夫人。後に贈皇太后)らしい、どこか優しげな雰囲気も感じられる御陵です。
(陵墓ファン以外にもお勧めして良い気がします。)

そして、この御陵をより印象的にしているのが、宇波多陵に隣接している三ノ宮(三宮)神社の存在かもしれません。三ノ宮(三宮)神社の参道が途中で、御陵への参道と分れて続くのですが、藤原旅子の霊を守護しているかのように、神社は深い森の中に鎮座しています。

(尚、神社の来歴については不明ですが、祭神は玉依姫之命(たまよりひめのみこと)で、末社として八幡宮と稲荷社があります。)

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前回の兒子神社(ちごじんじゃ)と同じく、京都市西京区大枝地区から地域名を冠する神社、大枝神社(おおえじんじゃ)を採り上げます。(京都市西京区大枝沓掛町)

大枝神社は、旧山陰道(国道9号線)沿いにある京都市立芸術大学から、北へ約五百メートル程の山沿いに位置し、数十メートル西には、桓武天皇の生母、高野新笠(たかののにいがさ)の御陵「光仁天皇夫人贈皇太后 天高知日之子姫尊(高野新笠)大枝陵」もあります。そして、以下のように、大枝は高野新笠とも関係深い地域だったようです。また、幼少期の桓武天皇もこの大枝の地にあった母の里で育ったと考えられています。


さて、大枝神社の由緒書きによると、大枝神社は、元々、康保四年(967)施行の『延喜式』に記載された、「乙訓郡十九座(大五座 小十四座)」の一つ、「乙訓郡大井神社(おとくにこおりおおいじんじゃ)」ということです。しかし、大井神社については、他に嵐山の大井神社(京都市右京区嵯峨天竜寺造路町)等も比定されていて、実際は不明です。そして、現在の祭神は、高美計(たかみのけ)神で、この地の先住民といわれる大枝氏の祭祀神といわれています。

由緒書きは、続けて・・創建当初は、聖徳太子の幼児像が祀られていた事から、千児明神(ちごみょうじん)と称していたと記し、現在は大枝神社から東に、前回にブログに採り上げた兒子神社(ちごじんじゃ 京都市西京区大枝塚原町)が祀られているとしています。ただ、両社の創建時期等が不明なため詳細は不明です。



さて、この地の先住民だった大枝氏について少し書いてみます・・・
この京都市西京区の「大枝(おおえ)」という地名は、古代氏族・土師(はじ)氏の流れを汲む大枝(大江)氏と関係する地名と考えられています。

土師(はじ)氏は、古代神話の神・天穂日命(あめのほひのみこと)の後裔である野見宿禰(のみのすくね)を始祖とするとも、また、渡来系氏族という説もある古代氏族で、高野新笠(桓武天皇の生母)の母方の家系も土師氏の一派、毛受(もず)の系統に属していたと『続日本紀』は記します。
この一族は、山城国乙訓郡大枝郷を本拠としていたようで、桓武天皇は、自身の親族でもあるこの土師氏の一派に、大枝(大江)という姓(かばね)を与えました・・・

『続日本紀』によると、延暦九年(790)十二月一日、桓武天皇は勅して、自身の母方の祖父、高野朝臣乙継(たかのあそみ(あそん)おとつぐ)と祖母の土師宿禰真妹(はじのすくねまいも)にそれぞれ正一位を追贈し、祖母の氏の土師氏を改めて「大枝朝臣」とするように命じています。そして、同族の菅原真仲(すがわらのまなか)と土師菅麻呂(はじのすがまろ)らに大枝朝臣が授けられています。
さらに、同月二十八日、桓武天皇は勅して、正六位上の土師諸上(はじのもろがみ 諸士とも)に大枝朝臣の氏姓を賜っています。そして、天皇の母の中宮高野新笠(桓武天皇の生母)の母、贈正一位大枝朝臣真妹(土師宿禰真妹)の家系の土師氏には、「大枝朝臣」を賜り、その他の土師氏の系統の者には、「秋篠朝臣」や「菅原朝臣」を名乗らせたと記しています。


尚、その後、貞観八年(866)十月十五日、正四位下大枝音人や従五位下大枝氏雄等が奏請して、「大枝」を「大江」に改めることを願い出ました。
『日本三代実録』によると、改姓希望の理由は、『漢書』が記す「枝が大きいと、本体の木の幹が折れて不吉である」という故事から、「大枝」では本家の衰退を招くという不吉な意味があるからということでした。ただし、「大枝」は、桓武天皇の時代に賜った由緒ある姓であることから、読みはそのままにして、「大きな川のように家が繁栄する」という意味から「大江」と改名しました。

(參議正四位下行右大弁兼播磨權守大枝朝臣音人。散位從五位下大枝朝臣氏雄等上表曰。去延暦九年十二月書云。春秋之義。祖以子貴。此則礼經之埀典。帝王之恒範。宜朕外祖母土師宿祢追贈正一位。其改土師氏爲大枝朝臣者。謹案。春秋曰。國家之立也。本大而末小。漢書曰。枝大於幹。不折必披。是知。枝條已大。根幹由其摧殘。譬猶子孫暫榮。祖統從此窮盡。然則以大枝爲姓。誠非本枝長固子孫無疆之義也。但此姓已生自先皇之恩給。不欲在遺民而變革。望請不敢改稱謂。但將以枝字爲江。然則一門危樹。去鳴柯而永春。千里大江。宗辞海而無盡。至是詔許之。)

また、その後、大江氏は学問の家柄として、平安時代の歌人・儒者として知られる大江匡衡(おおえのまさひら)や、鎌倉幕府草創期の政所初代別当・大江広元(おおえのひろもと)等を輩出し、広元の子孫は武家となって、その子孫として戦国大名毛利氏があります。



さて、大枝神社の境内には、江戸時代の享保八年(1723)と記された石燈篭があり、江戸時代の大枝神社が栄えていたことが判るということです。また、神紋は二葉葵になります。その後、明治六年(1873)に村社に公定され、現在は、(大枝)沓掛町の氏神として人々に親しまれています。
尚、境内地は二反四畝十六歩(七百三十六坪、約二千四百四十三平米)で、末社として稲荷社、不動明王、山の神等を祀り、天照大神(あまてらすおおかみ)の遥拝所もあります。(尚、この遥拝所は、円墳(直径約十一メートル、高さ約二メートル)の上にあり、横穴式石室の天井石が露出しています)
また、大礼祭は五月二十一日(近年は二十一日の直前の日曜日)です。

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京都市西京区の大枝という地域は、中国地方から丹波を経て京都に繋がる旧山陰道(国道9号線)沿いにあり、自動車の往来の多い9号線沿いには飲食店を中心とする数多い商業施設が立ち並んでいます。
有名な神社仏閣を中心とした京都観光ガイドでは、京都市内への通過点的な扱いで、ほとんど登場しない地域ですが、幾つかの興味深い史跡も点在しています。
今回はこの大枝地域から兒子神社(ちごじんじゃ)を採り上げます。


兒子神社は小さな神社ですが、参道は真っ直ぐに伸び、境内は背後のなだらかな山に溶け込んで広がっています。また、周辺には多くの花木や楓が植えられていて、季節ごとの花を楽しめます。この地区の神社の中では開放感がある親しみやすい印象の神社です。


さて、京都市西京区大枝塚原町、旧山陰道(国道9号線)の北側の山沿いにある兒子神社(ちごじんじゃ)は、境内の案内板によると、祭神は兒子大國御魂神で、聖徳太子の幼時の像が祀られているところから、兒子神社と呼ばれているということです。
創建時期等は不明ですが、寛文十一年(1671)の「境内七反五畝十歩、境内に四末社あり」との古記録があることから、少なくとも江戸時代前期に遡ると考えられています。その後、明治六年(1873)に村社となっています。

また、平安時代の延喜式の「乙訓郡十九座(大五座・小十四座)」の一つ、「乙訓郡茨田神社」に比定する説があり、大枝の古名の「宇波多(うわた)」と「茨田(うわた)」が同音であることを根拠としていますが、実際は不明です。また、西にある大枝神社(大枝沓掛町)の由緒書によると、元々は大枝神社も聖徳太子の幼児像を祀っていたとされ、両社が深い関係にあったことが伺えます。

境内には、稲荷神社、猿田彦神社、聖社、水神社・山神社が点在し、区民の誇りの木に選ばれているクスノキ、ツブラジイの大木もあります。また、五月中旬には例祭(子供神輿神幸祭)が行われます。

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阪急電鉄の桂駅西口から直線で約五百メートル、市街地の住宅に囲まれた小さな寺院があります・・これが、洛西観音霊場第二十五番札所の阿弥陀寺です。(京都市西京区桂千代原町)
民家のような建物にびっしりと小さな観音菩薩像が貼り付けられたたいへんユニークなお寺です。


阿弥陀寺は、山号を吉祥山(きっしょうざん)という浄土宗西山深草派の寺院で、本尊として阿弥陀如来像を祀ります。寺伝によると、創建は室町時代で、現在、新京極にある浄土宗西山深草派総本山・誓願寺の第三十九代法・空覚照恵上人が、隠居寺として創建したのが始まりとされます。その後、尼寺となり明治時代に衰退しますが、昭和三十六年(1961)に、先代の赤壁住職が入山して復興しました。

観音巡礼の観音様は、通称、「千代原観音」と呼ばれる、千手千眼観世音菩薩立像です。胎内には化仏の頭部等が納められており、これらは恵心僧都作と伝えられます。また、元々は西山の法華山寺に祀られていたと伝えられます。
(尚、法華山寺は、洛西の歴史を語る上では重要な寺院で、通称「峰ヶ堂」と呼ばれ、室町時代の全盛期には「東の清水寺、西の法華山寺」と言われたほどの大寺院でしたが、丹波方面から京都を伺う勢力が往来する唐櫃越の山上に位置していたため、応仁の乱以降、何度も戦乱に巻き込まれて衰退、廃寺となりました。)

その後、この観音は、観音寺(阿弥陀寺の東、約百五十メートルにある現在の桂小学校付近)に移されましたが、記録によると、観音寺では、正月の十八日に修正会が催され、かつては通過儀礼的な役割もあった西国巡礼の若者達が観音講を行うなど、千代原地域でも観音信仰が盛んだったようです。そして、その後、観音寺が廃寺となったために、この観音菩薩像は、当山に奉られるようになったということです。


さて、この千手観音菩薩立像(千代原観音)は、雷除け、悪病除けのご利益があるとされ、堂内には、右に本尊阿弥陀如来像、左に千手観音菩薩立像(千代原観音)が祀られています。また、御詠歌の額は弘化二年(1845)に奉納されたものということです。
また、先代住職は、千手観音菩薩立像(千代原観音)の脇仏の日光、月光菩薩をはじめ二千体余りの観音像を刻んで、境内のところ狭しと安置しました。中には身丈四メートルの車など現代の道具を手に持つ千手観音像もあり、他にも子授け観世音大菩薩、水子供養地蔵尊等々が祀られています。

尚、前回に採り上げた洛西観音霊場第二十二番札所の常楽寺の納経も受け付けています。

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阪急電鉄の桂駅西口の直ぐ傍にある、赤い鳥居の目立つ大宮社(おおみやしゃ)は、京都の西部を代表する有名な松尾大社に関係する神社で、松尾七社(大宮社、月読社、櫟谷社、宗像社、三宮社、衣手社、四之社)の一つとされています。
木々に囲まれた静かな境内を進むと本殿があり、その左手に社務所があります。社務所を区切った左側には、「常楽寺」という寺名と御詠歌、札所を示す木札が掲げられています。この知らない人は絶対に気付かないような場所が、洛西三十三ヵ所観音巡礼の第二十二番札所の常楽寺(じょうらくじ)です。(西京区川島北裏町)


千手院常楽寺は、現在は無住で、古資料が失われているため来歴も不明な寺院ですが、堂内には観音霊場の観音である十一面千手観世音像を中心に、右に釈迦像と薬師如来像、左に地蔵菩薩像が安置されています。十一面千手観世音像は安産や厄除けにご利益あるとされ、古くからこの川島の地域で信仰を集めてきたようです。

元々、京都の洛西では阿弥陀や観音信仰が盛んで、各地で観音講が組まれて、多くの人々が西国三十三ヵ所観音巡礼を行ってきましたが、兵庫、和歌山から舞鶴(京都府)、岐阜まで広がる巡礼は費用も掛かることから、より身近な巡礼地として「西の岡(洛西)三十三ヵ所観音巡礼」が生まれたようです。しかし、その後、明治の廃仏毀釈の影響で衰退してしまいました。
ようやく、昭和五十八年(1973)に古記録を基にしてかつての観音霊場を復活させた「洛西三十三ヵ所」が復活すると、今回の川島地区でもこれを機会に観音講が復活し、常楽寺では講の参加者が交代で札所に詰めて巡拝者に対応していたということです。
現在は無住のため、納経は次回に採り上げる阿弥陀寺(洛西観音霊場第二十五番札所)で受け付けています。

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